2012年がスタートしました。
昨年は東日本大震災に見舞われ、日本の市場環境が大きく変化致しました。
私も、この新聞販売店を始めて約20年。今後の新聞販売店の経営をどの様に運営して行くのか、地元に無くてはならない企業として新聞販売店はどの様な取組をして行かなければならないか…
これを機に、皆さんと共に考えていければと思います。
本題に入る前に、私の生い立ちと業界との繋がりを。
1964年12月16日。母親の実家である埼玉県久喜市の病院で生まれました。生後すぐに原因不明の高熱が続き生死をさまよい、産湯に浸かったのは3ヶ月後だったそうです。当時私の父は船橋にある朝日新聞の販売店の従業員。メーカーである朝日新聞社のエリア担当員の専属社員をしていました(通称、整理員と言います)。
当時の日本は、東京オリンピックで盛り上がり、新幹線開通など俗に言う「高度成長期」の真っただ中。新聞販売店も出店ラッシュで、朝日新聞の担当員と共に船橋、小見川、八日市場、佐原等々千葉県内を転々としていたそうです。その後父は、担当社員の北海道移動に伴い、朝日新聞を離れ都内大田区久が原で東京新聞の専売店の経営を始めました。昭和49年に都内を離れ千葉県野田市川間の朝日新聞の販売所に移り、平成20年に勇退をするまで県内を移動は有りましたが、朝日新聞の販売店の経営をしておりました。
以上が、実の父であるASA高洲高浜の前社長の歴史であります。
さて、私と新聞販売との出会いですが、千葉県内の高校卒業後、北海道の大学へ。卒業後は医療関係の仕事についておりました。幼少期から父母の苦労を見ておりましたので、自分は販売店の経営は出来ないとサラリーマンの道を選んでおりました。転機が訪れたのは入社3年目あたり。
まずは、朝日新聞担当員さんからのお誘い。「男一人なのだから、ゆくゆくは親父の後を継いで新聞販売店をやらないか」もうひとつは、勤めていた会社が、当時統合・合併が相次ぎ、社内的に混沌としており、先輩管理職の方が降格人事や移動等に直面し、「5年10年後の自分の未来は会社の人事に左右されたくない」と生意気な事を考え、「どうせなら自分の力で白黒着く世界に行こう」と退職を決意しました。
しかし、父の元でただ跡目を継ぐのは納得がいかず、どうせなら一から叩き上げで独立を目指そうと、埼玉へ単身飛び込み、とある販売店さんにお世話に成りました。それが今の業界の親父でもある村上和信のとの出会いと成りました。その後、村上の下で数年修業を積み平成3年に千葉の松ヶ丘の販売店で独立。経営者の一歩を踏み出しました。
しかし、たった数年の修行で経営者としての実力が付く訳も無く、28歳と言う年齢もあり、独立した店舗の場所も悪く、千葉へ数十分の距離。数多の誘惑に負け3年で廃業。埼玉の村上の所へ引き取られ再度修業の身に…
精進(?)したおかげか、平成9年に千葉の柏にて再度独立。平成20年に父の勇退に伴いASA高洲高浜に移動し今に至ります。以上が簡単な私の歴史になります。
最初の独立時と2度目からの独立時の違いや、経営観は後ほど・・・
さて、新聞販売店の歴史を振り返って見てみると・・・先ず大きく変わっていることは。昭和50年代に入り、今では当たり前のように新聞に毎朝折り込まれています広告チラシが登場します。当時は、朝刊店着時に社員さんがチラシをズラッと並べ、手入れをしていたのを記憶しています。その後、広告の増加により前日に折込広告を一枚にセット(現在の形)する作業が生まれました。
当時の新聞販売店は、この折込広告収入無い時代から経営をまわしていましたので、広告収入はまったくの副収入。時代と共に広告が増え、販売店の利益も共に莫大に成って行きます。この時代は広告収入の増加もありますが、新聞購読者自体も右肩上がりに入ってきます。当然新聞各社販売活動が激化して来ます。
この時期の右肩上がりの販売時代のお話は次回に。
※次回は2月25日に掲載致します。